ヘンリー・ボイル (初代カールトン男爵)
初代カールトン男爵ヘンリー・ボイル(英語: Henry Boyle, 1st Baron Carleton PC PC (Ire)、1669年7月12日 – 1725年3月31日)は、アイルランド王国出身のイギリスの政治家。
生涯
第3代ダンガーヴァン子爵チャールズ・ボイルと1人目の妻ジェーン・シーモア(第2代サマセット公爵ウィリアム・シーモアの娘)の息子として[1]、1669年7月12日に生まれた[2]。ウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、1685年から1688年まで海外を旅し[2]、1692年11月9日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1693年にM.A.の学位を修得した[3]。
1685年にコルネット(英語版)として従軍した後、1688年の名誉革命ではオラニエ公ウィレム3世を支持、翌年にはタムワース選挙区(英語版)で庶民院議員に当選したが、1690年に再選に失敗した[2]。その後は再当選の望みがなかったためアイルランド庶民院(英語版)に転じ、1692年にコーク・カウンティ選挙区(英語版)で当選、同年末にはイングランド庶民院でもケンブリッジ大学選挙区(英語版)で議員に返り咲いた[2]。以降数年間議会でホイッグ党の一員として経験を積んだ後、1699年から1702年まで下級大蔵卿を、1701年から1708年4月まで財務大臣を、1708年2月から1710年まで北部担当国務大臣を務めた[2]。1705年イングランド総選挙ではケンブリッジ大学選挙区(英語版)に鞍替えし、1710年まで議員を務めた[1]。また、1701年3月27日にイングランドの枢密顧問官に任命され、1706年にスコットランド王国との合同条約(英語版)交渉におけるイングランド代表を務め[1]、1704年から1715年までウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監(英語版)、ヨークシャー副提督(英語版)、アイルランド大蔵卿(英語版)を務めた[2]。
1710年にトーリー党が政権を握ると引退、1713年イギリス総選挙でも立候補を拒否したが、1714年のジョージ1世即位に伴いホイッグ党が復権すると[2]、同年9月30日にアイルランドの枢密顧問官(英語版)に任命され、10月9日にカールトン男爵に叙された[1]。ジョージ1世の治世初期にタウンゼンド子爵やロバート・ウォルポールに味方したが[2]、後にサンダーランド派として1721年6月25日から1725年に死去するまで枢密院議長を務めた[1]。直後にサンダーランド伯爵が死去すると、閣内で孤立したが、最終的には和解してウォルポール=タウンゼンド内閣の枢密院議長に留まった[2]。
1725年3月14日にカールトン・ハウスで死去、31日に埋葬された[1]。生涯未婚で後継者がなかったため、カールトン男爵の爵位は断絶した[1]。
人物
イギリス庶民院議長のリチャード・オンズローはカールトン男爵の能力を称えたものの、私生活については「豪奢すぎる」(too luxurious)と評した[2]。D・W・ヘイトン(D. W. Hayton)は『英国下院史』への寄稿で「安穏を好んだため、最も熱い戦場ではたびたび戦うことを嫌がった」と評し、1709年以降は実入りさえよければ補佐的な役割に甘んじたとし、この性格上の欠点がなければ一時は予想された「偉大さ」が確実なものになるだろうとした[2]。
系譜図
リチャード・ボイル 初代コーク伯爵 初代ダンガーヴァン子爵 (1566-1643) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リチャード・ボイル 初代バーリントン伯爵 第2代コーク伯爵 第2代ダンガーヴァン子爵 (1612-1698) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チャールズ・ボイル 第3代ダンガーヴァン子爵 (1639-1694) | リチャード・ボイル (1640年代-1665) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チャールズ・ボイル 第2代バーリントン伯爵 第3代コーク伯爵 第4代ダンガーヴァン子爵 (1660-1704) | ヘンリー・ボイル 初代カールトン男爵 (1669-1725) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リチャード・ボイル 第3代バーリントン伯爵 第4代コーク伯爵 第5代ダンガーヴァン子爵 (1694-1753) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ a b c d e f g Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 26–27.
- ^ a b c d e f g h i j k Hayton, D. W. (2002). "BOYLE, Hon. Henry (1669-1725), of Carleton House, Pall Mall, Westminster". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年6月16日閲覧。
- ^ "Boyle, the Hon. Henry. (BL692-)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
アイルランド議会 | ||
---|---|---|
先代 ジャスティン・マッカーシー(英語版) サー・リチャード・ネイグル(英語版) | 庶民院(英語版)議員(コーク・カウンティ選挙区(英語版)選出) 1692年 – 1695年 同職:セント・ジョン・ブロドリック(英語版) | 次代 サー・セント・ジョン・ブロドリック(英語版) トマス・ブロドリック(英語版) |
イングランド議会 (en) | ||
先代 ヘンリー・シドニー サー・ヘンリー・ゴー(英語版) | 庶民院議員(タムワース選挙区(英語版)選出) 1689年 – 1690年 同職:サー・ヘンリー・ゴー(英語版) | 次代 マイケル・ビッダルフ サー・ヘンリー・ゴー(英語版) |
先代 サー・ロバート・ソーヤー(英語版) エドワード・フィンチ(英語版) | 庶民院議員(ケンブリッジ大学選挙区(英語版)選出) 1692年 – 1705年 同職:エドワード・フィンチ(英語版) 1692年 – 1695年 ジョージ・オックセンデン(英語版) 1695年 – 1698年 アンソニー・ハモンド(英語版) 1698年 – 1701年 アイザック・ニュートン 1701年 – 1702年 アーサー・アンズリー(英語版) 1702年 – 1705年 | 次代 アーサー・アンズリー(英語版) ディクシー・ウィンザー |
先代 アンソニー・ボウヤー | 特権及び選挙委員会議長 1694年 – 1695年 | 次代 ジョン・ホーレス(英語版) |
先代 サー・ウォルター・クラージス準男爵(英語版) サー・トマス・クロス(英語版) | 庶民院議員(ウェストミンスター選挙区(英語版)選出) 1705年 – 1707年 同職:サー・ヘンリー・コルト準男爵(英語版) | 次代 グレートブリテン議会 |
グレートブリテン議会(英語版) | ||
先代 イングランド議会 | 庶民院議員(ウェストミンスター選挙区(英語版)選出) 1707年 – 1710年 同職:サー・ヘンリー・コルト準男爵(英語版) 1707年 – 1708年 トマス・メドリーコット(英語版) 1708年 – 1710年 | 次代 トマス・メドリーコット(英語版) サー・トマス・クロス(英語版) |
公職 | ||
先代 バーリントン伯爵 | アイルランド大蔵卿(英語版) 1704年 – 1715年 | 次代 バーリントン伯爵 |
先代 ジョン・スミス | 財務大臣 1701年 – 1708年 | 次代 ジョン・スミス |
先代 ロバート・ハーレー | 北部担当国務大臣 1708年 – 1710年 | 次代 ヘンリー・シンジョン |
先代 タウンゼンド子爵 | 枢密院議長 1721年 – 1725年 | 次代 デヴォンシャー公爵 |
名誉職 | ||
先代 バーリントン伯爵 | ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監(英語版) 1704年 – 1715年 | 次代 バーリントン伯爵 |
ヨークシャー副提督(英語版) 1704年 – 1715年 | ||
ノース・ライディング・オブ・ヨークシャー首席治安判事(英語版) 1704年 – 1715年 | ||
グレートブリテンの爵位 | ||
新設 | カールトン男爵 1714年 – 1725年 | 断絶 |
イギリスの財務大臣 | |
---|---|
イングランド |
|
グレートブリテン |
|
連合王国 |
|