憲安王
憲安王 金誼靖 | |
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新羅 | |
第47代国王 | |
王朝 | 新羅 |
在位期間 | 857年 - 861年3月14日 |
諡号 | 憲安大王 |
生年 | ? |
没年 | 咸通2年1月29日 (861年3月14日) |
父 | 金均貞 |
母 | 照明夫人 |
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憲安王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 헌안왕 |
漢字: | 憲安王 |
発音: | ホナンワン |
日本語読み: | けんあんおう |
ローマ字: | Heonan Wang |
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憲安王(けんあんおう、生年不詳 - 861年3月14日)は、新羅の第47代の王(在位:857年 - 861年)であり、姓は金、諱は誼靖(ぎせい)、『三国史記』新羅本紀・憲安王紀の分注では祐靖ともいう。第45代神武王の異母弟であり、父は上大等の金均貞、母は大阿飡(5等官)の金忠恭の娘の照明夫人[1]。王妃については不明。857年9月に先代の文聖王が死去し、遺詔に拠って王位に就いた。
治世
858年には4月の晩霜、5月から7月にかけての干害という天候不順に見舞われ、859年春には穀物が高騰し、国民が餓えることとなった。救済のために王は各地に使者を派遣し、穀物を振る舞った。同年4月には堤防の修築を行ない農業振興に努めた。
860年9月、群臣との宴の際に王族の金膺廉(後の景文王)の有徳を見出し、長女を降嫁させた。その3カ月後、在位5年目の861年1月に病に倒れ、後を継がせる男子がなかったために娘婿の金膺廉を王位に就けるように遺言して、1月29日に死去した。憲安王と諡され、孔雀趾に埋葬された。その王陵には、慶尚北道慶州市西岳洞の史跡第179号が比定されている。
脚注
関連項目
参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『完訳 三国遺事』一然著 金思燁訳、明石書店、1997 ISBN 4-7503-0992-3(原著『完訳 三国遺事』六興出版、1980)
外部リンク
- 慶州市公式サイト#文化遺産[リンク切れ](国会指定文化財-史跡)
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上代 | 1. 赫居世居西干(前57-4) / 2. 南解次次雄(4-24) / 3. 儒理尼師今(24-57) / 4. 脱解尼師今(57-80) / 5. 婆娑尼師今(80-112) / 6. 祇摩尼師今(112-134) / 7. 逸聖尼師今(134-154) / 8. 阿達羅尼師今(154-184) / 9. 伐休尼師今(184-196) / 10. 奈解尼師今(196-230) / 11. 助賁尼師今(230-247) / 12. 沾解尼師今(247-261) / 13. 味鄒尼師今(262-284) / 14. 儒礼尼師今(284-298) / 15. 基臨尼師今(298-310) / 16. 訖解尼師今(310-356) / 17. 奈勿尼師今(356-402) / 18. 実聖尼師今(402-417) / 19. 訥祇麻立干(417-458) / 20. 慈悲麻立干(458-479) / 21. 炤知麻立干(479-500) / 22. 智証麻立干(500-514) / 23. 法興王(514-540) / 24. 真興王(540-576) / 25. 真智王(576-579) / 26. 真平王(579-632) / 27. 善徳王(632-647) / 28. 真徳王(647-654) |
中代 | |
下代 | 36. 恵恭王(765-780) / 37. 宣徳王(780-785) / 38. 元聖王(785-799) / 39. 昭聖王(799-800) / 40. 哀荘王(800-809) / 41. 憲徳王(809-826) / 42. 興徳王(826-836) / 43. 僖康王(836-838) / 44. 閔哀王(838-839) / 45. 神武王(839) / 46. 文聖王(839-857) / 47. 憲安王(857-861) / 48. 景文王(861-875) / 49. 憲康王(875-886) / 50. 定康王(886-887) / 51. 真聖王(887-897) / 52. 孝恭王(897-912) / 53. 神徳王(912-917) / 54. 景明王(917-924) / 55. 景哀王(924-927) / 56. 敬順王(927-935) |
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