朔方郡

朔方郡(さくほう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代に現在の内モンゴル自治区オルドス市バヤンノール市にまたがる地域に設置された。北魏以降は現在の陝西省楡林市周辺に置かれた。

概要

秦代の新秦中郡を前身とする。

紀元前127年前漢元朔2年)、朔方郡が立てられた。朔方郡は并州に属し、三封・朔方・修都・臨河・呼遒・窳渾・渠搜・沃野・広牧・臨戎の10県を管轄した。王莽のとき、溝搜郡と改称された[1]

後漢が建てられると、朔方郡の称にもどされた。朔方郡は臨戎・三封・朔方・沃野・広牧・大城の6県を管轄した[2]215年(建安20年)、朔方郡は廃止された[3]235年(三国魏の青龍3年)、朔方郡が再び設置された[4]

晋のとき、朔方郡は後趙石勒に占領されて、朔州が置かれた[5]前秦が混乱すると、赫連勃勃が朔方を本拠に夏を建国し、統万城を築いた[6]

427年(北魏の始光4年)、北魏の太武帝が統万を占領すると、統万鎮が置かれた。487年(太和11年)、統万鎮は夏州と改称され、夏州の南に朔方郡が置かれた。513年(延昌2年)、東夏州が置かれ、朔方郡は東夏州に属した。魏平・政和・朔方の3県を管轄した[7]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、朔方郡は夏州に改められた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、夏州は朔方郡と改称された。巌緑寧朔長沢の3県を管轄した[8]

628年(貞観2年)、梁師都が平定されると、朔方郡は唐の夏州となった。夏州は徳静・巌緑・寧朔・長沢の4県を管轄した。742年(天宝元年)、夏州は朔方郡と改称された。758年(乾元元年)、朔方郡は夏州と改称され、朔方郡の呼称は姿を消した[9]

脚注

  1. ^ 漢書』地理志下
  2. ^ 後漢書』郡国志五
  3. ^ 三国志』魏書武帝紀
  4. ^ 三国志』魏書明帝紀
  5. ^ 晋書』地理志上
  6. ^ 晋書』赫連勃勃載記
  7. ^ 魏書』地形志二下
  8. ^ 隋書』地理志上
  9. ^ 旧唐書』地理志一
 
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