松前泰広

曖昧さ回避 松前安広」とは別人です。
 
凡例
松前泰広
時代 江戸時代前期
生誕 寛永2年(1625年
死没 延宝8年9月24日(1680年11月15日
改名 竹松丸/甚五郎(幼名)→泰広
別名 通称:甚十郎、八左衛門
戒名 常雄
墓所 駒込吉祥寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家光家綱
氏族 松前氏
父母 松前公広:蠣崎氏
兄弟 兼広、松前広維室、氏広泰広、広諶、幸広、蠣崎清広室、新井田成政室、女子、蠣崎広林室
正室北条氏長の娘
継室牧野儀成の娘
嘉広兼広、当広
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松前 泰広(まつまえ やすひろ)は、江戸時代前期の旗本

生涯

寛永2年(1625年)、蝦夷地松前藩の第2代藩主松前公広の3男として誕生。

寛永19年(1642年)3月、兄で第3代主・氏広の名代として江戸に参勤をする。正保3年(1646年)12月4日、小姓組に列し、1000俵を賜り旗本となる。正保5年(1648年)に氏広が死去した際、甥で後継の高広が若年のため、これを後見する。

寛文9年(1669年)、シャクシャインの戦いが勃発した時、大甥の5代藩主・松前矩広が11歳の若年のため、江戸幕府より討伐軍の総大将とされ、8月10日に子の嘉広、(直広)当広と共に松前に入る。国縫の家老・蠣崎広林(蔵人)が率いる部隊と9月4日に合流し、1500丁の鉄砲をもってシャクシャインを敗走させた。そして10月22日、ビボク(現在の新冠町)でシャクシャインが和睦のために泰広の陣を訪れ酒宴を催した際、佐藤権左衛門の謀略によって殺害した。その後、蠣崎広林に命じてシブチャリを攻撃した。翌年、江戸に戻って蜂起鎮圧の旨を将軍に報告した。怠りなく日頃務めているので黄金2枚を賜る。また、アイヌを平定したため、常陸国真壁郡に500石を加増される。寛文12年(1672年)7月、蜂起以来抗戦を続けてきた浦川(現浦河町)のアイヌが和睦に応じて使者を国縫へ派遣したため、幕府より松前目付に任命され、3人の子を伴い松前に行き、事態を収束させた。

延宝3年(1675年)1月26日、使番より、5月19日日光目付となり、日光に赴く。12月26日、布衣を着ることを許される。延宝5年(1677年)4月19日、再び日光に赴き目付代となる。翌延宝6年(1678年)4月11日、松平乗久肥前国唐津城の城地引渡役を務める。9月4日、職を辞して小普請となる。

延宝8年(1680年)、56歳で死去。

系譜

丸に割菱紋泰広系松前氏初代当主(1646年 - 1680年)
宗家

季繁 - 信広 - 光広 - 義広 - 季広 - 慶広 - 公広 - 氏広 - 高広 - 矩広 - 邦広 - 資広 - 道広 - 章広 - 良広 - 昌広 - 崇広 - 徳広 - 修広 - 勝広 - 正広 - 之広 - 孝広 -

分家・支流

崇行院松前家

隆広 - 靖広 - 宣広 - 慶広 - 賀広 -

松川松前家

安広 - 広国 - 為広 - 広雄 - 広高 - 脩広 - 広義 - 広文 - 広憲 - 広胖 - 広致 - 広道 - 賢吾 -

泰広系

泰広 - 嘉広 - 勝広 - 端広 - 誉広 - 忠広 - 幸広 -

正広系

正広 - 貞広 - 利広 - 広林 - 広久 - 広賢 - 広命 - 広匡 - 広甫 - 広為 - 熊太郎 -

守広系

守広 - 友広 - 広隆 - 広明 - 広武 - 広栄 - 広重 - 広房 - 広常 - 右狩 - 守道 - 広鄰 -