海老名みや
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海老名 みや(えびな みや、1862年12月26日(文久2年11月6日) - 1952年(昭和27年)3月4日)は、海老名弾正の妻で、キリスト教会の婦人活動家である。
来歴
横井小楠と後妻つせ子の娘として、熊本郊外の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に生まれる。戸籍上は熊本県士族・伊勢平四郎の長女[1]。1869年に小楠が暗殺されると熊本に転居し、リロイ・ランシング・ジェーンズの妻から英語を学ぶ。1875年に母方のいとこ徳富初子と共に洋学校への編入を認められる。
1876年、兄時雄や海老名喜三郎(弾正)らと一緒にキリスト教への入信を誓う。1877年に京都に移り、同志社に入学する。1882年、新島襄から洗礼を受ける。1882年、兄の勧めで喜三郎と結婚する。群馬安中、東京、熊本、京都、神戸と牧師夫人として夫と共に教会に仕える。叔母(母の妹)矢嶋楫子の日本基督教婦人矯風会の創立、また伯母(母の姉)竹崎順子の熊本女学校の創立に関わる。
1909年創刊の女性教養誌『新女界』の編集に夫や安井てつらとともに携わる。
1918年、夫と共に欧米に行き、ピッツバーグの世界キリスト教徒大会で日本人代表として出席する。1920年、夫が同志社総長になると京都に移った。
1937年に夫が死去した後は、キリスト教連合婦人会の会長を務めた。墓所は多磨霊園。
関連作品
脚注
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- ^ 海老名弾正『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
参考文献
- 『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年
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