米山梅吉

米山梅吉

米山 梅吉(よねやま うめきち、慶応4年2月4日〈1868年2月26日〉 - 昭和21年〈1946年4月28日〉は、明治から昭和時代前期の銀行家、貴族院勅選議員、青山学院財団常任理事[1]。旧三井銀行の経営中枢に携わり、また、日本にロータリークラブを初めて設立した人物でもある。

来歴・人物

1868年江戸東京)の和田家に生まれる。5歳の時に父親が他界したため、母親の郷里である静岡県駿東郡長泉町に移住する。14歳で沼津中学[注釈 1]に入学するも2年で退学し上京する。銀座の江南学校に入学するが、19歳で東京英和学校青山学院の前身)に転入し、米人講師のもとで英語を学ぶ。翌年に米山家に養子となり、渡米。8年間の在米中、オハイオ州ウェスリアン大学ニューヨーク州シラキュース大学などで法学を学ぶ。またこの在米中に澤田半之助と知り合い、澤田とはその死去まで(澤田家とはその後も)交友を持った[2]

日本に帰国後に勝海舟に師事し、博文館より「提督彼理(ペルリ)」を出版する。

1897年井上馨の紹介で三井銀行に入社し三井銀行深川・横浜・大阪各支店長などを経て、1909年、常務取締役に就任。早川千吉郎などもいたが実質的に池田成彬と共に実権を掌握。終始一貫して池田の補佐的役割にあったが、池田に対抗して青学出身者を三井銀行・三井信託にスカウトし、その中に間島弟彦万代順四郎らがいた。1920年に日本初のロータリークラブである「東京ロータリークラブ」を設立し、初代会長に就任。内外編物(現・ナイガイ)設立に深く関わった[3]

1924年三井信託株式会社を創立し取締役社長に就任。1937年に財団法人緑岡小学校(現、青山学院初等部)を創立し校長に就任する。1935年、多摩帝国美術学校(多摩美術大学) 校賓[4]1938年12月9日には、貴族院議員に勅選される[5]。晩年も、財団法人三井報恩会理事長、三井信託株式会社代表取締役会長、第15回赤十字国際会議日本赤十字代表委員などを歴任。1928年紺綬褒章受章、1942年勲四等瑞宝章受章。最終学位は、マスターオブアーツ(MA)(オハイオ州・ウェスレアン大学)である。1946年4月28日死去。享年78歳。

栄典

著書

単著

翻訳

選集

  • 『米山梅吉選集』 上巻、青山学院初等部、1960年5月。全国書誌番号:60014773。 
    • 収録:提督ペルリ、幕末西洋文化と沼津兵学校、看雲録(抄)
  • 『米山梅吉選集』 下巻、青山学院初等部、1960年5月。全国書誌番号:60014773。 
    • 収録:銀行行余録(抄)、常識関門、詩歌

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 青山学院 『青山学院九十年史』 1965年、375頁
  2. ^ 米山梅吉記念館館報vol.15 2010春 (PDF) - 米山梅吉記念館(2010年3月10日、p.8 - p10「米山梅吉をめぐる人々 ~澤田半之助~」を参照。米山による追悼文とその解説)2023年10月1日閲覧。
  3. ^ 山口日太郎『メガバンク学閥人脈』新風舎、2006年、129-130頁。
  4. ^ 多摩帝国美術学校 - 高橋士郎ウェブサイト(「多摩美術大学の歴史」内)
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、46頁。
  6. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

注釈

  1. ^ 旧制沼津中学すなわち後の静岡県立沼津東高等学校ではない。静岡県立沼津中学校は創立が1901年であり、まだ存在していない。


関連文献

  • 内田稔『無我の人 米山梅吉』秀建築設計事務所、1985年。
  • 戸崎肇『社会貢献の先駆者 米山梅吉』芙蓉書房出版 、2000年。
  • 谷内宏文『点描 米山梅吉―日本のロータリークラブと信託業の創立者』新風舎文庫、2005年。
  • 三戸岡道夫『米山梅吉の一生』栄光出版社、2009年。
  • 柴崎由紀『米山梅吉ものがたり』銀の鈴社、2019年。

関連項目

外部リンク

  • 『米山梅吉』 - コトバンク
  • 『米山 梅吉』 - コトバンク
  • 公益財団法人米山記念館
    • 奉仕の人 米山梅吉 その生い立ちと人となり
  • 公益財団法人ロータリー米山記念奨学会
    • 米山記念奨学会の誕生
  • 米山梅吉 | 三井広報委員会
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