毛玠

毛玠
後漢
尚書僕射
出生 生年不詳
兗州陳留郡平丘県
死去 建安21年(216年
拼音 Máo Jiè
孝先
主君 曹操
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毛 玠(もう かい、?-216年)は、中国後漢末期の政治家。字は孝先兗州陳留郡平丘県(現在の河南省新郷市長垣市)の人。子は毛機。『三国志』魏書に独立した伝がある。

経歴

人事担当

若い頃は県の役人となり、公正さで評判となった。戦乱を避けて荊州へ避難する事を考えたが、刺史である劉表の政治がいい加減なものであるという噂を聞き、丁度兗州に進軍してきた曹操から治中従事として招かれたため、これに応じた。献帝が長安を脱出し流浪していた時、これを保護する事を進言し、また帝の権威と農業で富ませた財力により、袁紹や劉表に対抗すべきと主張した。この進言が曹操に受け入れられ、毛玠は軍府の功曹に採り立てられた。

曹操が司空丞相になると、東曹の掾となって崔琰と共に官吏の人事担当を任された。毛玠は清廉潔白を重んじ、官吏に清廉な人物しか登用しなかったため、高官にあるものでさえ自ずと自身の行動を節制するようになった。曹操はこの状況を良しとした。

一方で毛玠は、他人からの要請を全く受け付けなかったという。曹操の子曹丕に身内の者の登用を頼まれた時、毛玠はこれですら拒絶した。このため周囲の人々から毛玠に対して不満が噴出し、東曹を廃止して西曹に一本化すべきという意見が出た。しかしこの時、曹操は毛玠を庇い、逆に西曹を廃止した。

後に右軍師へ昇進し、曹操が魏公となると尚書僕射となり、引き続き人事を担当した。曹植を可愛がる曹操を諌め、長幼の序をはっきりさせるべきだと進言した。曹操は毛玠を古人に準えて称えた。

丁儀との対立

しかし216年、崔琰が丁儀の讒言から曹操の不興を買って自害に追い込まれると(徐奕伝)、それを不満に思った毛玠と曹操の関係も冷え込んだ。やがて毛玠も丁儀の讒言を受け(何夔伝)、それを信じて激怒した曹操に投獄されてしまった。鍾繇に厳しく尋問されたが、屈しなかったという。

和洽は毛玠の人事政策にかねてから不満を持っていたが、毛玠が投獄されると曹操に対し、毛玠に非があるか否かの確認のため、讒言の事実関係を明らかにする事を要請した(和洽伝)。また桓階が毛玠を弁護したため、毛玠は免職だけで助命された(桓階伝)。しかし家に戻り不遇の内に亡くなった。その性格の清廉潔白さは、毛玠伝に引かれた『先賢行状』にも記されている。

子は不遇をかこっていたが、魏王朝が成立した220年の詔勅により、郎中となった(文帝紀)。

三国志演義

小説『三国志演義』では、兗州で挙兵した曹操に満寵呂虔から推挙され仕えた事にされており、赤壁の戦いでは于禁と共に水軍都督を拝命している。

陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
巻31 劉二牧伝
巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
巻59 呉主五子伝
巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝