紀元前184年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 前160年代 |
年 | 前187年 前186年 前185年 紀元前184年 前183年 前182年 前181年 |
紀元前184年(きげんぜん184ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元570年、プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ポルキウス・リキヌスの年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
共和政ローマ
- マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス、ルキウス・ウァレリウス・フラックスがケンソルに選ばれ、ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスやスキピオ・アシアティクスを処分した[1]。
- スキピオ・アフリカヌスやスキピオ・アシアティクスに対する追及が行われ、それに対し護民官ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルが拒否権を行使した[2]。
- マケドニア王国の王ピリッポス5世の動向を探るため、アッピウス・クラウディウス・プルケルを長とする使節団がマケドニア王国とギリシアに送られた[3]。
- ポテンティア(ポテンツァ近郊)とピサウルムへの植民が行われた[4]。
- 既知の最古のバシリカであるBasilica Porciaがカトにより作られ、ローマで完成された。この建物はローマ市民によって、商取引や法的問題の処理のために使われた。
誕生
「Category:紀元前184年生」も参照
死去
「Category:紀元前184年没」も参照
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
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